だいぶまえに、「俺か俺以外か。ローランドという生き方」を読んで見事に痺れたわけで、
改めて、再読してローランドの美学に色々と考えさせられました。って話です。
世の中には2種類の男しかいない。
俺か、俺以外か。ローランドという生き方/ROLAND P42
俺か、俺以外か。
ジャージとタキシードの美学
何に考えさせられたかというと、見かけに対するローランドの美学に考えさせられました。
外見かよ。と思うかもしれませんが、外見に拘るからこそ生まれる美学があるんでしょう。
俺か、俺以外か-ローランドという生き方/ローランド P96
ジャージばかり着ていたら、ジャージが似合う人間になってく。
この名言は、ローランドが年末年始に実家に帰っている数日間をジャージで過ごしていたら、いつの間にかなんとも情けない身なりで、タキシードよりもジャージの似合う人間になってしまっていた!っていうエピソードから生まれた言葉です。
ジャージの似合うようになったあなた
例えば、楽な恰好であるジャージで部屋の中で過していたら、いつの間にか最寄りのコンビニまで行ける様になっていたり。
気づけばジャージでどこへでも行ける様になり、ジャージで過す時間の方が長くなっていたり。
そんな風に過ごしていたら、身だしなみを整える時間が減っていき、自分の身なりを気にしなくなっていたり。
なぜならそれが楽だから。楽な自分に慣れてしまって、さらに楽な状態で居る事が長くなる。
そんな中、ある時自分自身で気づく時が来ます。
久々にジャケットやシャツに袖を通した時に感じる着心地や、腰に巻いているベルトの穴がいつもの位置で納まらない…。
あれ?あれ?と思っていると、鏡の中の自分自身と目が合い、その違和感に気づきます。
楽な状態が作り出した、ジャケットよりもジャージの似合う自分がそこにいる事を。
そんな風に僕らは楽な状態を続けて、気づいた時には格好の付かないなんとも情けない自分になってたりします。ローランドがそうなったように。
ローランドはタキシードに袖を通す
ローランドは常日頃からタキシードを着ています。
なぜなら、ローランドが尊敬する唯一のホストである上条聖也(漫画夜王の登場人物)も常にタキシードで出勤しているし、ドン・ヴィトー・コルレオーネ(ゴッドファーザーの登場人物)もジェームズ・ボンドも、憧れのかっこいい男たちはかっこよくタキシードを着こなしているのです。
つまり、男たるものタキシードだからです。タキシードは男のロマンだからです。そういうことです。
とまぁ、タキシードへの憧れ(というか、タキシードを着たかっこいい男達)がグイグイ出ていますが、タキシードであることにより意識が変わり、所作も振る舞いも変わるのです。
なぜなら、ジャージを着ただらし無い自分よりも、タキシードに袖を通した自分の方が制約がかかります。
タキシードを着るからにはそれなりの理由があります。だからこそ、だらし無い着方はできないし、それなりの高価なものであれば汚したりしてしまわないように、所作が自然と慎重になりますし、体の可動領域も変わってきます。その体にかかる制約が上品な自分になっていくのです。
そして、タキシードをかっこよく着ようと思うようになれば、それ相応のスタイルが求めらてきます。
良いタキシードを着ると、自然と僕らの背筋は伸びていくのですね。
「タキシードをカッコよくきられない男なんて、男じゃねぇ」
俺か、俺以外か-ローランドという生き方/ローランド P84
閑話休題-見劣りしていく後輩
僕の後輩に、背が高くて整った顔立ちの綺麗な女の子がいます。
ばっちりメイクをして、髪を整えて、服装もTPOを常に意識して働いていて、ハキハキとした性格と相まって、うちの営業の看板娘です。
そんな彼女と、地方に長期出張に行くことがありました。
現地に常駐して開業準備をしていました。なので、普段ほどお客さんに会う事が少なくなり、ほぼデスクワークでした。
そんな日々か続くと、メイクをしない日が続いて、髪の毛も適当に後ろで結ってある。そして服装も何とも言えない格好に…と、少しづつ少しづつ彼女の身なりが手抜きになっていき、言動や行動にまで現れて、せっかくの美人が、どんどん見劣りしていってしまう。なんてことがありました。
今思えば、あの時の僕も僕で、いつの間にか穴の開いたデニムに、アイロンのかかってないシワだらけのシャツにうっすら毛玉の浮いたジャケットで出勤していました。
きっと、その時の僕の振る舞いも姿勢も格好良くはなかったんだろうなぁ…と
ちなみに、出張から戻ってきた僕らは出張前の僕らに戻ったかというと、そんなことはなくて、髪を整える事が面倒に感じるようになって、もういいかな。と適当なセットで外出する事が増えたりしていたので、一度身についた習慣とか思考は簡単には治らないんだなぁ…と
男ども、カッコつけろ!
じゃぁ、早速そのジャージを脱ぎ捨ててタキシードに袖を通せ!!
というわけではなくて、常日頃からカッコつけようぜ!ってことです。
実際のところ、たまにタキシードに袖を通したところで別人のように振る舞えるかと言われればそんなことはないですよね。
慣れてないが故に、窮屈に感じたり、動作がぎこちなくなったり…と、タキシードに着られてる感が否めない振る舞いになります。
だからこそ、普段から身なりを整え、姿勢や所作に気を使い、いざという時に格好いい自分を演じれるように日々カッコつけるのです。
「ローランドさんて、なんで誰も見ていないときにも格好つけるんですか?」
P98
とよく聞かれる。
でも逆に聞きたい。
人が見ていないところで格好つけられないやつが、どうして人が見ているときに格好つけられるんですか?と。
人が見ていないときにこそ、格好を付けるのだ。
ジャージ思考を脱ぎ捨てる
さて、長々とジャージとタキシードに体を通して、身だしなみと行動について考えてきたのは、この二つの衣装は「だらし無い自分」と「カッコいい自分」の比喩として考えられるな。と思ったのです。
袖を通せなくなったタキシード
ジャージは、楽な道を選んだ自分です。
楽な格好をして、楽な行動をとり、それが許される環境で過ごし、体を傾けて日々を過ごしています。
楽な状態は癖になります。
楽な服装、楽な姿勢、楽な習慣、楽な行動、楽な思考…あげればきりがありません。
そして、楽な状態が癖になったころには、だらしない恰好になり、頑張れなくなったり、さぼったり…と、気づかないうちに自分がどんどん劣化していってしまいます。
その結果、タキシードに袖を通せなくなる。つまり、カッコ良い自分を振る舞えなくなる。振る舞う事がバカバカしく感じたり、それは自分じゃないと思い、タキシードを脱ぎ捨ていつものジャージに袖を通しいつものあの空間に転がり込み、いつしかタキシードに二度と袖を通さなくなるのでしょう。
身なりは人を作る
僕らはいつだってカッコ良い自分に憧れています。それなのに、だらし無い自分であることを許します。
そして、だらし無い自分が本当の姿だと決めつけ、カッコ良い自分に近づくことを諦めて、ただただ憧れるだけの心身ともに情けない生き物になってしまいます。
でも、そんなのは思い込みです。自分がかっこいいと思った服に袖を通せばいつもより自分がかっこよく見えますよね。所詮そんなもんなんです。
それでも、その思い込みはその日の自分を少しだけ変えてくれます。
もっとかっこよく見えるように他にも気を使い始めます。
そうやって、僕らは少しずつ少しずつかっこつければ良いのです。
そして、いつしかそれが当たり前になり、あの頃の自分よりもかっこよくなっているはずです。
なぜなら、身なりは人を作るのですから。
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