Kindleの本棚に眠っている本が何冊か発見しました。積読とは物理現象ではなく、概念的現象だったんですね。0と1の積読と名付けました。
今週は、先週に引き続いて、周木律の堂シリーズ四作目と、「チーズはどこに消えた?」の続編、今更ですが、多動力なんか読みました。
伽藍堂の殺人
堂シリーズ第4弾
眼球堂の殺人は序章であって第1章ではなかったのか?と思わされた、物語が大きく回転する一冊。
前作では、自己相似図(フラクタル)で構成されていたが、今回は、「球体を適切に分割し、再び寄せ集めることによって、球体が二つ作る事ができる」と言うバナッハ–タルスキのパラドックスを軸に構成された第四作目。
例によって、トリックにはさほど興味がない(と言うか、途中でなんとなくわかってしまった…)が、シリーズを通して、少しずつ物語の謎を浮かび上がっていく感じがワクワクして引き込まれてしまう。
そして、今作で物語が大きく回る瞬間で幕を閉じる。
堂シリーズも残り2冊。この4冊目は終盤への特異点なのだろうか。
謎を解いたらから正義だと?それは違う。あの事件で僕が示したのは、22年前の事件が眼球堂に一つ同型の球を生んだと言う真実だ。ここに今、それと同型の球がもう一つあると言う事実を、藤先生がバナッハ–タルスキの定理を用いて示したのと同じ事だ。
伽藍堂の殺人/周木律 P398
多動力
とにかく動け
例のKindleの本棚に眠ってた本です。
筆者である堀江貴文の仕事のスタイルそれが「多動力」
そんな「多動力」とはなんなのか?どうすればいいのか?なんて事が書いてある。
僕らが陥っている「石の上にも三年」「馬鹿真面目」「バランス教」と言う染み付いた、もはや洗脳とも言える価値観に疑問を投げかる。
そして、僕らが「多動力」を発揮するために、「自分の時間」を取り戻し、今の自分の仕事を俯瞰し「一工夫」を加えることを常に考えることで、仕事にリズムを作る。さらに、自分が働かなくても、働いてくれる分身を生み出す。その結果、たくさんの仕事をこなす事が出来る「多動力」を身につけ発揮できるようになる。
僕は、定期的に自分の中で構築された常識を壊すことが大事だなぁ。と思っていて、そのためには、
「世間の常識から平気で外れて生きていて、それでいて誰よりも自由に生きている人たちの考えや行動を知ること」と考えている。
だから、堀江貴文みたいなイノベーターたちの本を読むことは、自分の中の考えのいろいろな部分を刺激されて、見事に常識が常識で無くなる。それが楽しかったりする。
人生にゴールや終着点なんてあってたまるか。
僕は、今日、明日、明後日と、常に自分を捨てながら新しい自分に生まれ変わっていきたい。
「多動力」こそ。僕が僕であり続けるための最大の原動力なのだ。
多動力/堀江貴文
迷路の外には何がある?
僕らの物語。
「チーズはどこへ消えた?」の続編。
前作で、結局何もすることが出来ないまま終わってしまったヘムの物語であり、それは、現状から抜け出すことを、何かのせいにして怯えて今の場所から動けない僕らの物語でもあるのだろう。
未だに迷路に取り残されているヘムを主人公に、その心地の良い場所から、つまり迷路から抜け出す為にヘムは自分の信念と向き合い足を動かす。
今作もサクッと読める寓話だった。
僕は、前作で真っ先に迷路を抜けだしたホーのような優秀な存在ではなくて、いつも自分の居心地の良い場所から抜ける事を避けるために、誰に言うわけでもない言い訳を頭の中でぐるぐるしているような情けない人間なので、ヘムの物語がしっくりくる。
だからこそ、物語の中で、ヘムが描く言葉がずっしりと僕の何かに響いた。
前作が「変わりゆく世界に適応する為の寓話」なら、今作は「適応する自分になる為の寓話」なんじゃないだろうか。だから、まずは自分から始めよう。
改めてこの2冊をよく読んで、自分と向き合う時間を設けたいな。
デニスはいった。「先週、我々は、突然大きな変化が起きた時にひどく動転してしまうと言う話をした。つまり、その時何人かが行ったように、そんな時、『どこから始めれば良いのだろう?』」
(中略)
アレックスはしばらくの間、口をつぐんで考え込んでいた。それから、ゆっくり話し始めた。
「どうも。それは自分から始まるように思う」
迷路の外には何がある?/スペンサー・ジョンソン P91
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