帰路に就く電車の車窓から眺める景色がいつの間にか、日暮れから暮れ切った空と、街を照らす様々な灯り達だけの世界になりました。
ぼうっとしていると、太陽にも季節にも置いて行かれてしまうなぁ。なんて思ったり。
今週は、「階段島」の 河野裕 による新作と、ケーキを等分割できない少年少女たちのノンフィクション、そして、森博嗣編集長による雑誌を読みました。
さよならの言い方なんて知らない
階段島から架見崎へ
「いなくなれ群青」の作者、河野裕による最新作。
階段島同様今回も日本のどこかの街のような異世界「架見崎」
そこで、主人公たちは選んだ能力で陣取ゲームに巻き込まれる。
僕もさよならの言い方なんて知らないし、まともにさよならなんて言ったことがない。
この物語は、さよならの言い方を知らないまま終わるのか、それても知ってしまうのか。
始まったばかりだけれど、早くもこの物語の終幕が楽しみで仕方がない。
今作の主人公は、主人公にしては弱弱しすぎる。むしろ、ライバルの方が圧倒的な主人公感を持っている気がする。ちょっとメアリー・スーを感じる。
だけど、圧倒的な力を持つ主人公よりも、震えながら声を発し、涙目になりながらも虚勢を張る主人公の方が、この先の物語の展開をワクワクさせてくれそうだ。
階段島で河野裕を知ったので、そこからの世界観の変わりように読んでて驚いたけれど、河野裕のもつ世界観やキャラクターたちに引き込まれてスルスルと読み終わってしまった。
河野裕の青春はいつもミステリアスな不透明さを持ちながら、儚い綺麗さを纏ってる。
また、新たな青春が始まる。
「DVDプレイヤーのリモコンを預かった。渡して欲しければ、いう通りにするんだ」
さよならの言い方なんて知らない。/河野裕 P325
ケーキの切れない非行少年たち
気づかれない歪みとの葛藤
ケーキの切れないって何ぞや?と思ってパラパラと目を通したら、ケーキを等分に切る事が出来ない、本当にケーキを切る事が出来ない少年たち。ここ最近衝撃的だった一冊。
正直、最初の印象は、ケーキを等分割出来ないのも、非行に走るのも、本人たちの環境、つまり、教育の問題なんだろうか。と勝手に思い込んでいたのだけれど、実際は、本人たちの環境、やる気等は全く関係なかった。
本人たちは、いたってまじめに向かい合っているのに、認知的能力の欠如から、どうしても理解する事が出来ないがゆえに、周囲とズレが生じてしまう。そして、そのズレが周囲との溝を作り、埋まらな溝へのストレスから非行に走ってしまう事がある。という。
僕らの世界は、大多数の平均的な価値観から作られていて、その価値観が当たり前だと思い、それを理解した気になって、今日の世界を生きている。しかし、その大多数から零れ落ちてしまった少年少女は、誰からも理解されることなく非行の道をたどってしまう。
大多数の価値観で作られた世界に順応する事が出来ない人が世界には少なからず存在している。そして、そのズレに苦しみ、排除された少年少女たちの存在は何ともむなしく感じる。
認知能力的な欠如と書いたが、そもそも欠如なのだろうか?
大多数の価値観が織りなす世界は絡まりすぎて、うまく言葉にすることが出来ない。
たまたま大多数側(たぶんだけれど)にいる自分と少数側の人々の存在を知っているだけでもこれからの視点は変わってくるのかなぁ。と思わされた。
しかし、さらに問題と私が感じたのは、そういった彼らに対して、”学校ではその背¥いきにくさが気づかれず特別な配慮がされてこなかっとこと”、そして不適応を起こして非行化し、最後に行き着いた少年院においても理解されず、”非行に対してひたすら「反省」を強いられていたこと”でした。
ケーキの切れない非行少年たち/宮口幸治 P35
MORI Magazine3
最も森博嗣らしい
森博嗣編集長による100%森博嗣の雑誌。第三弾。
「最も森博嗣らしい」と書いてあった。確かに、この雑誌は森博嗣がどんな人物かを余すことなく綴られている。良くも悪くも。
森博嗣が読者の質問や悩み相談に適当に(二つの意味で)答えていくコーナーや、なんとも言えないショートストーリーがあれば、最近の森博嗣の仕事に関するエッセイが乗っていたりと、よく一人でこんなにも雑多に出来るなぁ。と
読み終わったときに、森博嗣らしさとは何か?と、なんとも不毛な事を少し考えてみたりしたが、森博嗣らしさは森博嗣らしさ。というトートロジー的な答えでいいじゃないか。と思ったり。
そして、なんとなく思ったことは、自由であることがその人がその人らしく生きると言う事なんじゃないかなぁ。と
何かに縛られていれば、自分がやりたいようにできない。つまり自分らしく生きれない。たくさんのしがらみから解放されたときに、僕らは自由になる。
場所も人もお金も不自由しなければ僕らは、どこでも行ける、どこでも生きていける。そして、そこで好きなように、自分がやりたいように毎日を過ごすことができる。
そういう生き方を森博嗣がやっているから、それを森博嗣らしさと呼ぶ。
それを、僕らがやっていれば、各々の「らしさ」を体現する事が出来るんだろうな。
本誌のように、バラバラで、統一感がなく、あれもやり、これもやり、という「雑」な人生は、もしかして僕そのものなのかもしれません。そう意味では、最も森博嗣らしい本になった、とも言えましょう。
MORI Magazine3/森博嗣 P200
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